星川杉山神社

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宮司さんのおはなし 第28回

菜の花や雪柳の明るい色が街を彩り、ようやく春らしい陽気になってまいりました。4月から新たな学校や勤め先へと通い始めた方も多いことでしょう。環境が変わるとき、人は未知の体験に対する期待と不安を同時に抱くものです。初めて飛び込む世界でうまくやっていけるだろうか、そこで出会う人たちとよい関係を築けるだろうか、自分はこれからどうなるのだろうか…。

人生は、経験の積み重ねです。経験を積むということはひと息にはできません。私自身、さまざまな経験を通して多くの方々に出会い、学びや気付きを積み重ねながらここまでやってきました。宮司として7人の神職、職員とともに当社をお守りする現在に至るまでには長い時間がかかっています。そこで今回は、私自身が歩んできた道を振り返りながら、人生について、人との出会いについてのお話をしてみたいと思います。時代背景はいまとはだいぶ異なりますが、ちょうど杉山神社の変遷に対するご質問もいただいていましたので、当社の歴史に興味のある方にも参考にしていただけるのではないかと思います。

昭和15年、私は、東京・佃の住吉神社より発する港区の幸稲荷神社を本家とする神職の家に生まれました。戦争が始まったばかりの非常に不安定な時代です。両親は祖父母とともに東京で暮らしていましたが、当時ご奉仕する神職のいなかった星川杉山神社の宮司にと縁ある方から望まれた父は、家族とともに横浜へ移ってきました。昭和16年のことです。

杉山神社は元を「杉山大明神」と呼ばれており、古くから周辺の人々に「明神さま」と崇敬されていました。現在の「明神台」という地名は、この地が杉山神社とともに歩んできたことを表しています。私が子供の頃には、海抜60メートルの高台にそびえる森のなかの神社、といった景観で、森の周りは一面の麦畑でした。いまのようにビルなどもありませんから、鳥居の前に立つと東に房総の山々や横浜の港、西は真正面に富士山を眺めることができました。

そんな自然あふれる環境のなかで、私は山歩きをしたり川遊びをしたりしながら子供時代をのびのびと過ごしました。ひばりの鳴く声を聞きながらうさぎを見つけたり、蝶やとんぼを追いかけたり。家では犬や鶏、文鳥などを育て、生きものが大好きでした。可愛がっていた動物の死に接する悲しい経験も何度かありましたが、生きものへの愛着心はこの頃に培われたのだと思います。死なせてしまうのが嫌で、朝捕まえた昆虫を夕方にはまた外へ放すような子供でした。

一方で、東京から横浜へ移ってきた父は大変な苦労をしていました。星川駅の周辺にはさまざまな会社や工場、そこで働く人たちの住宅などがあり、商店街も発展していましたが、みな戦火で焼けてしまい、終戦後も非常に厳しい生活を強いられていたからです。幸い神社にまで火は及びませんでしたが、社殿を開けることはできず、父は境内よりずっと下の方にあった社務所から毎日坂を登ってきては神さまにご挨拶し、また引き返すということを繰り返していました。お詣りにいらっしゃる方もほとんどなく、経済的にも困窮していたため、民間の会社に勤めながら神社をお守りしていたようです。杉山神社へ移るまでの父は割にゆとりのある暮らしをしていましたから、なぜこれほどの苦労を買って出たのだろうと、ずっと私は疑問に感じていました。もし自分がその立場にあったら同じことができただろうかと考えると、正直なところ、いまでも答が出ません。

そんな父を見て育ちましたから、私は大学を卒業するまで「神職にはなるまい」と思っていました。ほかにやりたいことがあったわけではありませんが、父のように苦労ばかりの仕事より、きちんと自分の能力を認めてもらえる仕事に就きたいと思ったのです。そこで大学も神道学部へは進まずに政経学部を選びました。子供時代の私は真面目で聞き分けがよく、けれど引っ込み思案であまり意思表示をしないといった性格でしたから、両親もこの決断は意外に思ったかもしれません。私自身、自分は表現力には欠けていたけれど行動力だけは人一倍だったのだなと、いまになって思います。

そして大学を卒業した私は、いったん一般の企業に就職しました。では、そんな私がなぜ神職への道を歩むことになったのでしょう。長くなりましたので、続きは次回にお話ししたいと思います。

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